マタイによる福音書で語られるイエスの洗礼の最後の節です。この節によってこの洗礼がどのように重要であるかがわかります。洗礼者ヨハネはここからしばらく福音書から姿を消します。彼は痛ましい最期を遂げるのですが、これはまた別なときに見ることにします。
By Andrea del Verrocchio – The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., Public Domain, Link
καὶ ἰδοὺ φωνὴ ἐκ τῶν οὐρανῶν λέγουσα, Οὗτός ἐστιν ὁ υἱός μου ὁ ἀγαπητός, ἐν ᾧ εὐδόκησα. (Mt 3:17)
Et ecce vox de caelis dicens: « Hic est Filius meus dilectus, in quo mihi conplacui ».
そして見なさい、空から声がする、このように言いながら「この者は私の愛するべき息子であり、この息子によって私は満足させられた。」
前節でἰδοὺを使って読者に注意を促したばかりですがまたここで出てきました。φωνὴ ἐκ τῶν οὐρανῶν「天から出た声」が主語です。λέγουσα「言っている」は現在分詞の主格女性単数でφωνὴと一致しています。
動詞がありませんがεἰμί「〜である」「〜がある」の変化形、ここでは ἐστινを補って訳して良いと思います。ラテン語ではestに相当します。言われた内容が続きます。
Οὗτός ἐστιν ὁ υἱός μου「この男は私の息子である」、これは難しくありません。ラテン語 Hic est Filius meusも同様です。この息子には修飾語があります。定冠詞をともなった形容詞 ὁ ἀγαπητός「喜ばしい男」「愛するべき男」です。この単語はἀγάπη「愛情」に由来する言葉で日本語でもアガペーとそのまま使われることがあります。キリスト教の文脈では「神の人に対する愛」という意味で使われるようです。
ἐν ᾧ は前置詞付きの関係代名詞で先行詞οὗτός か ὁ υἱόςですが語順から近いὁ υἱόςでしょう。ἐν + 与格で手段を表します。εὐδόκησαはεὐδοκέω「喜ばされる」「満足させられる」のアオリスト時制です。動詞の形は能動ですが意味は受動です。εὐδοκέωはεὐ「良く」とδοκέω「現れる」の複合語です。ラテン語は mihi conplacuiで他動詞 conplaceo「喜ばす」を再帰的に使って「喜ぶ」の意味にしています。「〜によって私は満足させられた。」というと日本語的には少し変ですが原文の意を組んでそのままにしました。「〜を私は満足に思う」のような表現もありかと思います。