再び言葉についての記述に戻されます。
By Henri Bacher (1890-1934) – http://digitool.bibnat.ro:8881, Public Domain, Link
ἐν τῷ κόσμῳ ἦν, καὶ ὁ κόσμος δι’ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ ὁ κόσμος αὐτὸν οὐκ ἔγνω. εἰς τὰ ἴδια ἦλθεν, καὶ οἱ ἴδιοι αὐτὸν οὐ παρέλαβον. (Io 1:10-11)
In mundo erat, et mundus per ipsum factus est, et mundus eum non cognovit. In propria venit, et sui eum non receperunt.
言葉はこの世界にあった、そしてこの世界はそれによって生まれた、一方で世界はそれを認めなかった。言葉は自分に属するものたちのところへやって来た、一方でその属する人々はそれを受け入れなかった。
最初の文には主語がありませんが前節で主語となっていた τὸ φῶς「光」とすると、これを受けるαὐτὸνが対格男性単数でために文法的に成立しません。主語は男性名詞である必要があり遡ってὁ λόγος「言葉」であるとわかります。
動詞は未完了 ἦν「あった」、場所として ἐν τῷ κόσμῳ「その世界に」が添えられています。このκόσμῳ、主格でκόσμοςは前節では「すべての人々のいる世界」という意味で使われていたものと同じものを指します。
次は主語が ὁ κόσμος「世界」で動詞はアオリストのἐγένετο「なった」「生まれた」です。διά + 属格で「〜を通して」「〜により」を表現し属格男性単数の代名詞αὐτοῦが続きます。この αὐτοῦは「言葉」を指します。
次も主語は同 ὁ κόσμοςで動詞はγιγνώσκω「知る」「認める」のアオリストἔγνω、否定辞οὐκを伴い「知らなかった」「認めなかった」と訳せます。目的語は代名詞の対格単数 αὐτὸνでこれも男性「言葉」を指します。前の文とκαίで接続されていますが文意を考慮すると「そして」でなく「一方で」としたほうが日本語として読みやすいと思います。
次も主語が省略されていますが、動詞 ἔρχομαι「来る」のアオリスト ἦλθεν、その場所として εἰς τὰ ἴδια「属するもののところに」という記述を考えると主語は κόσμοςから「言葉」に戻されたと考えるのが妥当でしょう。τὰ ἴδιαは「所有物」を意味します。中性複数なので中性単数のὁ κόσμοςも男性単数 πάντα ἄνθρωπον「すべての人」も直接指すことはないので、漠然と「言葉によって作られたもの、例えば世界やそこにいる人々など」を意味しているようです。
この後もκαίで接続されますがοὐで否定される文脈になるため「一方で」と訳します。ここでの主語は οἱ ἴδιοιで先程のἴδιαと同じ形容詞ですがこちらは男性複数です。定冠詞付の形容詞が中性の場合は事物を表しますが男性の場合には人を表しますのでοἱ ἴδιοιは「言葉によって作られた人々」を意味します。παρέλαβονはπαραλαμβάνω「受け入れる」のアオリストです。
この部分は(Io 1:5)と構文が類似していて「光」に対しての「闇」、「言葉」に対しての「世界と人々」が対比されています。
καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτία αὐτὸ οὐ κατέλαβεν. (Io 1:5)
et lux in tenebris lucet et tenebrae eam non comprehenderunt.
そして光は闇の中で輝き、その闇はそれを掴むことはなかった。