世の人のために言葉はそのあり方を変えます。
By San Giovanni Evangelista (Ciclo di Sant’Antonio di Ranverso) – Own work, Diesel43, 2011-10-15 16:28:14, CC BY-SA 3.0, Link
Καὶ ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο καὶ ἐσκήνωσεν ἐν ἡμῖν, καὶ ἐθεασάμεθα τὴν δόξαν αὐτοῦ, δόξαν ὡς μονογενοῦς παρὰ πατρός, πλήρης χάριτος καὶ ἀληθείας. (Io 1:14)
Et Verbum caro factum est et habitavit in nobis et vidimus gloriam, eius gloriam quasi unigeniti a Patre, plenum gratiae et veritatis.
そして言葉は肉体となり私たちの中に居を定めた、そして私たちはその栄光を垣間見た、父からの一人息子の栄光を、言葉は恵みと真実に満ちていた。
はじめは主語 λόγος「言葉」、動詞 γίγνομαι「なる」のアオリストἐγένετο、補語 σάρξ「肉体」で ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο「言葉は肉体となった」と読みます。λόγοςもσάρξも主格なのでどちらを主語にするか迷いますが定冠詞が付いているものが一般的には主語と解釈されます。これはギリシア語の重要な規則です。ラテン語には冠詞が存在しないので理論上はVerbum「言葉」もcaro 「肉体」も両方主語になりえます。こちらは文脈から判断するしかありません。
次の文の動詞は σκηνόω「テントを張る」「野営をする」のアオリストで主語は前と同じです。ἐν ἡμῖνは「私たちの中に」です。
3つめの文はθεάομαι「見る」「注視する」のアオリスト一人称複数ἐθεασάμεθαで主語は自動的に「私たち」となります。見たものは τὴν δόξαν αὐτοῦ「彼の栄光」です。δόξαは通常は「意見」「推論」などの意味ですがキリスト教の文脈では「栄光」という意味になります。
ラテン語のhabitavit、見出しの形 habitoは「住む」「暮らす」「定住する」の意味はありますが「テントを張る」のようなアウトドアの感覚はありません。フランス語LSではラテン語と同じ動詞 habiterが使われていますし、英語KJVはdwellとこちらもラテン語に近い訳になっています。ただここの文脈でギリシア語の動詞 σκηνόωの意図を十分知っておくのは損ではありません。
再度対格のδόξαν「栄光」が提示され副詞 ὡς「〜のような」で説明が続きます。μονογενής「一人子」の属格 μονογενοῦςがὡςに掛かり「一人息子のような」と読めます。παρὰ πατρόςは「父のそばの」「父からの」という意味です。
形容詞 πλήρης「満ちている」は主格男性単数で男性名詞 λόγος「言葉」に掛かります。この形容詞は満たされるものを属格で取ります。ここでは2つ、χάριςの属格χάριτοςとἀλήθεια「真実」の属格ἀληθείαςが掛かります。χάριςは一般には「優雅」を意味しますがキリスト教の文脈では「神の恵み」の意味を持ちます。
古代社会では言葉は書かれ読まれるものというよりは、声にだされ聞かれるものであるという考え方がありました。このため言葉が人に伝えられるためには声を発する肉体が必要でした。言葉が肉体を伴う必然性というのはこういった考え方が背景にあったようです。