言葉が私たちに先んじていることの説明が続きます。
洗礼者ヨハネと思われる壁画 By gugganij – Own work, CC BY-SA 3.0, Link
ὅτι ἐκ τοῦ πληρώματος αὐτοῦ ἡμεῖς πάντες ἐλάβομεν καὶ χάριν ἀντὶ χάριτος· (Io 1:16)
Et de plenitudine eius nos omnes accepimus, et gratiam pro gratia;
なぜなら私たちは彼の満ちているものからすべてを受け取ったからだ、恵みに対する恵みもまた、
版によっては最初のὅτι「なぜなら」がκαί「そして」になっているものがあるようで、ラテン語のetはこのκαίの直訳になっています。ὅτιで考えるとこの節全体が、前節にあるὅτι以下の従属節「なぜなら彼は私よりも先の人であったからだ」と洗礼者ヨハネが語ったことの言い換えになります。
主語はἡμεῖς「私たち」で動詞はλαμβάνω「受け取る」のアオリストἐλάβομενで目的語となる受け取ったものは2つ、πάντες「すべてのもの」とχάριν「恵み」です。
ἐκ + 属格はπάντεςの出処を表していてここではπληρώματος「満ちているもの」「完全なもの」が続いています。さらに代名詞の属格αὐτοῦ「彼の」で修飾されていて、これは λόγος「言葉」、または「肉体となった言葉」「イエス」を指しています。
二つ目の目的語 χάρινには ἀντὶ χάριτος「恵みに対して」と補足されています。χάρινはχάρις「恵み」の対格、χάριτοςは属格で同語反復がされています。直訳すると「(すでに受け取った)恵みに対して(新たに受け取る)恵みを」となりますが冗長性を考慮して「溢れんばかりの恵みを」と訳してもよいでしょう。
この世の人は「言葉」から生を受け、そのことを知らないままでいたのが、やがて現れる「肉体となった言葉」によってそのことを知ることになる、というのが明らかにされています。