エレミヤ書の新約(2)破壊と再建


旧約聖書のエレミヤ書にでてくる「新約」という言葉を追っています。神は預言者に今まで人々に行ってきたこととこれから行うことを伝えます。
Пророк Иеремия, Микеланжело Буонаротти.jpg
By Микеланжело Буонаротти – Электронная библиотека.Музеи Ватикана., Public Domain, Link

καὶ ἔσται ὥσπερ ἐγρηγόρουν ἐπ᾽ αὐτοὺς καθαιρεῖν καὶ κακοῦν, οὕτως γρηγορήσω ἐπ᾽ αὐτοὺς τοῦ οἰκοδομεῖν καὶ καταφυτεύειν, φησὶν κύριος. (Ier LXX 38:28 / Μασ. 31:28)

et sicut vigilavi super eos ut evellerem et demolirer et dissiparem et disperderem et adfligerem sic vigilabo super eos ut aedificem et plantem ait Dominus (Ier 31:28)

そして私が取り除くために彼らを見張り悪く取り扱っていたのと同じように、その家を建て植物を植えるために彼らを見張るであろう」と主は言う

ἔσταιは εἰμί「〜である」の未来、ὥσπερから先が「〜のように」でその後副詞 οὕτως「同じような方法で〜」と続き、最後は φησὶν κύριος「主人は言う」で前節から続いている神の台詞が閉じます。φησὶνはφημί「言う」の三人称単数現在です。全体で「〜のように〜であろう、と主は言う」という流れです。

ὥσπερ以下はまず ἐγρηγόρουν、γρηγορῶ「見張る」の一人称単数未完了とその見張る内容はἐπί+対格で「〜の上へ」です。対格のαὐτοὺςが指すものは以前にでているようですが前節に出てきた「イスラエルとユダ」のことでしょう。καθαιρεῖνはκαθαίρω「取り払う」の現在不定詞でここでは見張る目的を表しているようです。ここまでで「私が彼ら(イスラエルとユダ)を取り除こうと見張っていた」となります。さらにκαίで別の動詞κακοῦνが出てきます。これはκακόω「悪く取り扱う」の一人称単数です。

οὕτως以下のγρηγορήσωは同じγρηγορῶの一人称単数未来で「私は見張るであろう」となります。ἐπ᾽ αὐτοὺςも同じで繰り返しの表現がされていることがわかります。

不定詞は前半には一つでしたがここでは2つあります。οἰκοδομεῖν、οἰκοδομέω「家をたてる」の現在不定詞とκαταφυτεύειν、καταφυτεύω「植物を植える」の現在不定詞です。不定詞の時制は相対的なので定動詞γρηγορήσωが未来であることから「未来の現在」つまり「未来」になります。

問題は不定詞の前のτοῦです。定冠詞と不定詞の組み合わせは動作の実体化を意味します。この定冠詞は属格となっているため αὐτοὺςにかかっているのですが、日本語に訳すのが少々難しいです。ギリシア語文を直訳すると「その家を建て植物を植える動作の(属性を持つ)彼らを見張る」となります。

ここの表現はラテン語文では目的を表す ut + 接続法が使われていますのでそれに合わせて「その家を建て植物を植える目的を達成するために彼らを見張る」と解釈します。現代語訳にもラテン語と同等の訳しか見当たりません。

ラテン語では少し違う構文になっていてut + 接続法が使われています。これも同じように目的を表すことができます。ただ前半はevellerem「取り除いた」 、demolirer「破壊した」 dissiparem「散乱させた」 、disperderem「亡きものにした」、adfligerem「打つ」「苦悩させる」と5つの激しい動詞が並列で並べられてより強い印象を受けます。それぞれ接続法の未完了ですがut以下にあるときには意味は現在になります。ギリシア語文との違いについてですが、もとにした文書が違うかどちらかが意訳をしたのかわかりません。またこれに関連する注釈は特に見つかりませんでした。

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