エレミヤ書の新約(5)新しい契約


ここで神は新しい契約 διαθήκη καινή のことを語ります。この言葉はギリシア語の「新約聖書」と同じ言葉です。

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Par Barthélemy d’EyckWeb Gallery of Art:   Image  Info about artwork, Domaine public, Lien

Ἰδοὺ ἡμέραι ἔρχονται, φησὶν κύριος, καὶ διαθήσομαι τῷ οἴκῳ Ισραηλ καὶ τῷ οἴκῳ Ιουδα διαθήκην καινήν, (Ier LXX 38:31 / Μασ. 31:31)

ecce dies veniunt dicit Dominus et feriam domui Israhel et domui Iuda foedus novum  (Ier 31:31)

「見なさい、日々が訪れる」と主は言う、「そして私はイスラエルの家とユダの家に対して新しい契約を置くであろう、

 

注意を促す ἰδού の後で 現在時制の表現 ἡμέραι ἔρχονται「日々が訪れる」が来ます。これは前の出だし (Ier 31:27)とほぼ同じです。

καί の後は未来時制になります。διαθήσομαιはδιατίθημιの一人称単数の未来形διαθήσομαιです。この動詞はτίθημι「置く」の前にδια-「通り抜けて」「超えて」の意味を持つ接頭辞が着いたもので「配置する」「配分する」「管理する」「扱う」などの意味があります。対応するラテン語の動詞feriamはferioの未来でこちらは「打つ」「叩く」など激しい意味があります。

この動詞の対象となるのが対格 διαθήκην καινήνです。διαθήκηは「配置」「配分」「命令」「条約」など色々意味がありますが、注目するべきはこの名詞がこの文の動詞 διατίθημιに由来していることです。現代語では一般的に同根の複数の単語を一文に使うのを避けます。ところが古典語ではこれに対する忌避はそれほど見られません。現代語だと「人を愛する」とか「愛人を持つ」とは言いますが「愛人を愛する」というと少し冗長な感じがしてしまいます。

ラテン語で新約聖書はnovum testamentumといいますが、ここではtestamentumの代わりにfoedusが使われています。このfoedusは「条約」「合意」「契約」という意味の単語です。ちなみにtestamentumはtestor「証明する」「証言する」というの現在不定詞testariに道具や媒体の意味を持つ接尾詞-mentumが着いたものです。ラテン語の観点から言えばこのエレミヤ書は「新約」とは違う語を使っていることがわかります。

ここでδιαθήκηに戻りますがこの語を「契約」と訳してよいのか少し迷いました。というのも神が人間にたいして「扱う」ということを述べているものの人間の方にはその是否が問われず一方的なものです。この「扱い」を受け入れる人にとっては「契約」といえるでしょうがそうでない人にとっては神の一方的な「取り計らい」ともいえます。ここではラテン語のfoedusという言葉、また新約の「約」という語を尊重し、「契約」と訳しました。

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