新しい契約について述べた神はこれが以前の契約とは異なると言います。
By Gustave Doré – Public Domain, Link
οὐ κατὰ τὴν διαθήκην, ἣν διεθέμην τοῖς πατράσιν αὐτῶν ἐν ἡμέρᾳ ἐπιλαβομένου μου τῆς χειρὸς αὐτῶν ἐξαγαγεῖν αὐτοὺς ἐκ γῆς Αἰγύπτου, ὅτι αὐτοὶ οὐκ ἐνέμειναν ἐν τῇ διαθήκῃ μου, καὶ ἐγὼ ἠμέλησα αὐτῶν, φησὶν κύριος· (Ier LXX 38:32 / Μασ. 31:32)
non secundum pactum quod pepigi cum patribus vestris in die qua adprehendi manum eorum ut educerem eos de terra Aegypti pactum quod irritum fecerunt et ego dominatus sum eorum dicit Dominus (Ier 31:32)
エジプトの地から連れ出すために私が彼らの父親たちの手を取った日の契約によるものではない、彼らがその中に留まることはなかった契約に、同時に私は彼らの支配者である契約に。」と主は言った。
κατά + 対格で「〜による」で対格は前節でも出てきた τὴν διαθήκην「契約」です。οὐ が打ち消しなので「契約によるものではない」となり、どういう契約かは関係代名詞 ἣν以下で説明されます。
関係節の動詞 διεθέμηνも前節で出てたδιατίθημι「配置する」ですが、前節の未来時制と違いアオリスト時制です。その配置する先は与格複数で πατράσιν「父達」、属格 αὐτῶν「彼ら自身の」と補足があります。この αὐτῶνは前節の「イスラエルの家とユダの家」を指します。
配置された時間については ἐν ἡμέρᾳ「日に」とありこちらも属格男性単数 μου「私の」と同格のアオリスト中動態分詞ἐπιλαβομένουで補足があります。ここはμουを主語、ἐπιλαβομένουを動詞とした絶対奪格とも解釈できます。この分詞 ἐπιλαβομένουは ἐπιλαμβάνω「取る」の変化形で中動態の場合の意味は「手に〜を取る」になります。手に取る対象は属格で示されここではχείρ「手」の属格単数 χειρόςです。これも属格複数αὐτῶν「彼ら自身の」つまり「イスラエルの家とユダの家父親たちの」で補足があります。ここまで「私が彼らの手を取った日に」となります。
その後には ἐξάγω「外に連れ出す」の不定詞ἐξαγαγεῖν、対格複数「彼ら自身を」、属格を伴う前置詞 ἐκ「〜外へ」、属格 γῆς「土地」、更に属格でその補足 Αἰγύπτου「エジプトの」がつづき、「彼らをエジプトの地から外に連れ出すために」、つまり神が彼らの手をとった目的を表しています。
ὅτι以下が「契約」の説明で従属節になっています。ἐνέμεινανはἐμμένω「そばに残る」のアオリスト三人称複数で否定辞 οὐκがあるので「彼らはそばに残らなかった」となります。その場所は ἐν τῇ διαθήκῃ「その契約の中に」となり、彼ら、つまり父親たちが契約を守らなかったことが示されています。
καί で続きます。ἠμέλησαはἀμελέω「興味を持たない」「心配しない」「無視する」のアオリストで対象は属格αὐτῶν「彼ら自身」です。つまり人が契約を守らないことと「神が人を気にかけない」ことが並置されています。
しかしラテン語版ではこの部分は異なっています。前半のirritum fecerunt「彼らは無効なことをした」はギリシア語とほぼ同等でよいのですが、後半の ego dominatus sum eorum「私は彼らの支配者である」の部分は「無視する」というギリシア語の文脈と異なります。
参考に現代語訳を見てみます。フランス語LSではquoique je fusse leur maître「私が彼らの主人であったにもかかわらず」、英語KJVでは althoufh I was an husband unto themとフランス語とほぼ同等ですが両方共「にもかかわらず」という反意語を含みラテン語より説明的になっています。英語のhusbandには「夫」の他に「家の男」「家長」という意味もあります。
これはギリシア語LXXの訳がヘブライ語と異なっていること、ラテン語の方がヘブライ語に近いことが確認されています。ラテン語では神自身が契約を放棄した記述はなくむしろ「主人」としての自覚が記述されています。この理由からこの部分はラテン語から訳しました。