エレミヤ書の新約(8)新しい契約の世界


新しい契約の元での様子を神は語ります。

Beaumont-le-Roger Saint-Nicolas 7352.JPG
By ReinhardhaukeOwn work, CC BY-SA 3.0, Link

καὶ οὐ μὴ διδάξωσιν ἕκαστος τὸν πολίτην αὐτοῦ καὶ ἕκαστος τὸν ἀδελφὸν αὐτοῦ λέγων Γνῶθι τὸν κύριον· ὅτι πάντες εἰδήσουσίν με ἀπὸ μικροῦ αὐτῶν καὶ ἕως μεγάλου αὐτῶν, ὅτι ἵλεως ἔσομαι ταῖς ἀδικίαις αὐτῶν καὶ τῶν ἁμαρτιῶν αὐτῶν οὐ μὴ μνησθῶ ἔτι. (Ier LXX 38:34 / Μασ. 31:34)

et non docebunt ultra vir proximum suum et vir fratrem suum dicens cognoscite Dominum omnes enim cognoscent me a minimo eorum usque ad maximum ait Dominus quia propitiabor iniquitati eorum et peccati eorum non ero memor amplius (Ier 31:34)

「そして彼の同胞である者も彼の兄弟である者も一切説くことはありえない、『主を認めよ』と言いながら、なぜなら彼らの小さき者から彼らの偉大な者までのすべてが私を見るであろうからだ」と主は言う、「私は彼らの不正に対して慈悲深くあるだろうし彼らの過ちのことをこれ以上思い浮かべることは一切ありえない」

οὐ μὴはともに否定の副詞ですがこの2つが並べられると「一切〜ない」という強い否定の意味になります。動詞はδιδάσκω「教える」「説く」のアオリスト三人称複数接続法 διδάξωσινで、主語はκαίで結ばれた 2つの ἕκαστος「それぞれの者」です。ἕκαστοςには関係の対格でそれぞれ πολίτης「市民」「同胞」の対格πολίτηνとἀδελφός「兄弟」の対格ἀδελφόνが添えられています。αὐτοῦは属格で「彼自身の」の意味です。

説く内容はλέγω「言う」の現在分詞 λέγωνの後に続きます。γνῶθιはγιγνώσκω「知る」「認める」のアオリストの命令で対象は対格 κύριον「主人」です。

ὅτι以下はその説明です。主語は πάντες「すべての者」で動詞は εἶδον「見る」の未来 εἰδήσουσιν、その対象はμε「私」です。ἀπὸ + 属格で出自を意味します。属格はμικροῦ「小さき者」とμεγάλου「偉大な者」の2つがκαὶ ἕως「同時に」「〜から〜まで」で接続されています。

もう一つのὅτιでさらに説明があります。ἵλεωςはἴλαοςとも書き「優雅な」「慈悲深い」で動詞 ἔσομαιは未来で「私は〜であろう」です。その向き先は ἀδικία「不正」の与格複数 ἀδικίαιςです。καίの後に再び強い否定 οὐ μὴとμιμνήσκω「思い浮かべる」のアオリスト接続法一人称単数のμνησθῶ、副詞 ἔτι「これ以上」が続き、ここまでで「私はこれ以上思い浮かべることは一切ありえない」という意味です。その対象は属格で表され、ここではἁμάρτημα「過ち」の属格複数 ἁμαρτιῶνです。

ギリシア語にはないのですがラテン語には φησὶν κύριοςに相当する句、ait Dominus「主は言う」が挿入されています。訳にはこの部分も加えました。

ここで語られていることと新約聖書がどのような関係にあるかは注意をもって見る必要がありますが、古くからの法律とは異なる神との関係が、ここで語られていることになります。エレミヤ書はここで一旦終わりにします。

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