パウロの新約(5)自分を論じる能力の由来


推薦状を心の問題と置き換えると独善的に陥る恐れもでてきます。パウロはこの点についても語っています。

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コリントスのアポロ神殿の遺跡 By Institute for the Study of the Ancient World from New York, United States of America – Corinth, Temple of Apollo (II), CC BY 2.0, Link

οὐχ ὅτι ἀφ’ ἑαυτῶν ἱκανοί ἐσμεν λογίσασθαί τι ὡς ἐξ ἑαυτῶν, ἀλλ’ ἡ ἱκανότης ἡμῶν ἐκ τοῦ θεοῦ, (2 Cor 3:5)

Non quod sufficientes simus cogitare aliquid a nobis quasi ex nobis, sed sufficientia nostra ex Deo est,

私たちが自分自身によって適切に何かを考えるということは自分自身に端を発するするようなものではない、私たちのその適切さは神に端を発している。

ὅτιは従属節のための接続詞で、「〜すること」のような意味になります。この従属節の動詞はεἰμίの一人称複数現在のἐσμενで「私たちは〜である」で補語のἱκανόςの男性複数 ἱκανοίが続きます。このἱκανόςは動詞 ἱκνέομαι「適切である」に由来していて意味も能力や知性の面で「適切な」「十分な」という意味になります。何をするのに「適切」かというと続く不定詞 λογίσασθαιで表されます。これは λογίζομαι「考える」「計算する」「論じる」のアオリスト不定詞でその対象は τι「何か」とあります。ここまでで「何かを考えることについて私たちは適切である」と読めます。また ἱκανοί λογίσασθαί τιを不定詞句のように読むならば「私たちは適切に何かを考える」と読め、こちらの方が日本語に合います。

文頭にでてくる、ἀπό + 属格で理由や出処を表します。ἑαυτῶνは属格複数で「私たち自身」ですので「私たち自身の結果によって」「私たちから(離れて)」などの意味になります。

ὡς 「のような」とἐξ ἑαυτῶν「自分自身から外へ」は 文頭の否定辞 οὐχで否定される箇所になります。否定のあとの ἀλλάで「〜でなく〜である」という構文になりますがそこで肯定されるのは後半に出てくる ἐκ τοῦ θεοῦ「神から外へ」になります。

後半の主語はἱκανότης「適切さ」で形容詞 ἱκανόςと同様ἱκνέομαιに由来しています。属格 ἡμῶν「私たちの」は主語に掛かります。動詞はありませんがラテン語にはestがあるのでἐστιが省略されていると考えます。ἐκ τοῦ θεοῦで主語の由来を示しています。

パウロは自分自身のことについて論じたり理由をつけたりすることは「適切」だと考えています。この「適切さ」は「論じたり考えたりする能力」と言ってもよいでしょう。ただしその権威はἐξ ἑαυτῶν「自分自身から外へ 」出てくるのでなく ἐκ τοῦ θεοῦ「神から外へ」出てくるものと言っています。

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