パウロの新約(9)正義の奉仕の優越性


前節に続いて新しい契約の元で行われる奉仕がについて語られます。

コリントスの通り

εἰ γὰρ τῇ διακονίᾳ τῆς κατακρίσεως δόξα, πολλῷ μᾶλλον περισσεύει ἡ διακονία τῆς δικαιοσύνης δόξῃ. (2 Cor 3:9)

nam si ministratio damnationis gloria est, multo magis abundat ministerium iustitiae in gloria.

実際のところもし死罪宣告の奉仕に対する栄光というものがあるならば、正義の奉仕は栄光において遥かに上にある。

γάρは「実際のところ」「というのも」の意味で前文からの流れを受ける接続詞ですが文頭でなく二番目に置かれることが多いです。現代語訳の場合最初に持ってくる必要があります。εἰは「もし」を意味する接続詞で従属節を展開します。よって「実際のところもし〜ならば」ではじめ主節がその後に来ることが期待されます。

従属節の動詞はありませんがἐστί「〜である」が省略されたものと考えられます。ラテン語ではこれに対応する estは省略されていません。δόξαは主格なので主語とも考えられますが定冠詞がないため補語であるとも考えられます。τῇ διακονίᾳは与格で「奉仕に対する」、τῆς κατακρίσεωςはκατάκρισις「有罪の宣告」の属格でδιακονίᾳに掛かります。「有罪の宣告の奉仕」というとわかりにくいのですが、2節前に出てきたἡ διακονία τοῦ θανάτου「死の奉仕」の言い換えではないかと考えられます。

さてこの従属節はδόξαをどう扱うかによって二通りの読み方ができます。定冠詞がないことから補語と考える場合

(1)もし死罪宣告の奉仕へのものが栄光であるならば

となります。主語として考えると

(2)もし栄光が死罪宣告の奉仕へのものであるならば

となります。ここでの与格は所有を表します。全体を与格や属格も含め主語句として考えると

(3)もし死罪宣告の奉仕に対する栄光というものがあるならば

となります。文法上説明に無理がないのは一番最初のものになりますが日本語で呼んだときの無理のないものは三番目でしょう。一方ラテン語では「奉仕」にあたるministratioは与格でなく主格なのでそのまま主語になります。ギリシア語でも主格ἡ διακονίαが使われている写本があるようです。この場合

(4)もし死罪宣告の奉仕が栄光であるならば

とスッキリした表現になっていますが与格と比べ微妙に文意がずれています。どうもフランス語LSや英語KJVでもこのラテン語の訳が使われています。

主節の動詞はπερισσεύω「上にある」の三人称単数現在で主語は ἡ διακονία「奉仕」これにδικαιοσύνη「公正」「正義」の属格 δικαιοσύνηςがつくので「正義の奉仕は上にある」となります。これに比較級の副詞 μᾶλλον「とても」「はるかに」にπολύς「数の多い」「大きい」の与格 πολλῷが付きその度合の大きさを表現しています。δόξῃはδόξα「栄光」の与格で比較級を含むこの文では尺度を表し「栄光において」と読めます。

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