パウロの新約(10)栄光の行方


「栄光」あるいは「賛美」というものが「新しい契約」の登場で更新されている様子が語れています。

アクロコリントス

καὶ γὰρ οὐ δεδόξασται τὸ δεδοξασμένον ἐν τούτῳ τῷ μέρει εἵνεκεν τῆς ὑπερβαλλούσης δόξης. (2 Cor 3:10)

Nam nec glorificatum est, quod claruit in hac parte propter, excellentem gloriam;

実のところ、かつて栄光を与えられたものもまた、その部分においては遥かに超える栄光のために、再び栄光を与えられなかった。

ここの主語は完了受動分詞の中性単数 δεδοξασμένονで元の動詞はδοξάζωです。この動詞は「考える」「想像する」の意味ですが新約聖書の文脈では「栄光を与える」「賛美する」などの意味になります。完了受動分詞中性の場合「栄光を与えられたもの」という意味になります。ラテン語のglorificatumもgrorifico「栄光を与える」の完了受動分詞です。動詞 δεδόξασταιは同じδοξάζωの完了受動態です。否定辞 οὐを伴って「栄光を与えられたものは栄光を与えられなかった」という意味になります。矛盾しているようですが時間的には分詞の「栄光を与えられた」が先にきて動詞の「栄光を与えられなかった」が後にきます。つまり「(かつて)栄光を与えられたものは(今回は)栄光を与えられなかった」と読めます。

δόξαという名詞は通常「意見」「推定」の意味が新約聖書では「栄光」「名誉」の意味で使われています。動詞δοξάζωもこれと同じ語根を持つ単語で同じ意味の変更が見られます。

γάρは接続詞「というのも」ですが、καίは接続詞ではなく副詞「〜もまた」です。καίは接続詞「そして」の場合と今回の副詞の場合があるので判別が必要です。

μέρειは μέρος「部分」の与格単数で ἐν τούτῳ τῷ μέρειは「その部分においては」となります。どの部分かというと前節の「死罪宣告の奉仕」より「正義の奉仕」が「栄光において」優越するという部分を指します。

εἵνεκεν + 属格で「〜のために」を意味します。このεἵνεκενはἕνεκαのバリエーションですが、このἕνεκαは前置詞ではなくて後置詞として通常使われます。ὑπερβαλλούσηςはὑπερβάλλωの現在分詞で他動詞の場合「上に投げる」、自動詞の場合「はるかに超える」の意味になります。ここでは後者で解釈できます。つまり εἵνεκεν τῆς ὑπερβαλλούσης δόξηςは「はるかに超える栄光のために」と訳せます。

「かつて栄光を与えられたもの」とは古い契約によるもので、「遥かに超える栄光」は新しい契約によるものだと読むことができます。

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