こんにちは、サクラです。
トランスジェンダーにとっては陳腐なものが斬新に、斬新なものが陳腐に思えることがあります。歌い古された童謡によって胸が打たれるような深い感情がもたらされることが時にはあります。
童謡『赤い靴』は大正時代の詩人野口雨情によって作詞されました。歌われている女の子には実在のモデルがいたなどの言説があるようですが、ここではそれに触れず、トランスジェンダー的視点から読み解きたいと思います。
赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった
「赤い靴」を履いていた「女の子」は歌い手にとって身近な人と思われます。しかしあるとき外国人に連れて行かれてしまいました。養子縁組とだろうと推測できますが、なにかのメタファーとも考えられます。私はこの女の子をトランスジェンダーのMtFと見立てます。
「異人」というのは「通常と異なる生まれの人」「異なる認識を持つ人」と解釈できます。トランスジェンダー的に言えば「異なる性自認」の象徴とも言えるでしょう。身近な人がある日突然、通常と異なる性自認に取り憑かれ、あるいは本来の性自認に目覚めて、変貌していった様子が歌われています。もしかしたらこの女の子はもとから異人であったと解釈することもできるかもしれません。
「赤い靴」は変貌する前から履いていたようですが、わざわざ彼女のことを「赤い靴」で特徴づけているのは、そこに彼女の独自性を歌い手が感じ取っていたからでしょう。歌い手はそこから予兆として今回の変貌を察知していた可能性があります。
横浜の埠頭(はとば)から汽船(ふね)に乗って 異人さんにつれられて行っちゃった
飛行機のない時代の港は未知の世界への入り口でした。当然、港町横浜は異国情緒にあふれ、日常とは異なるいかなることでも起こりうるイメージがありました。女の子はここから未知の世界に旅立っていったのです。
「異人さんにつれられて行っちゃった」は1番とまったく同じリフレインです。大事なことなので二度言う必要があったのでしょう。身近な友人が突如変貌し未知の世界に旅立ってしまう、こんなことが歌い手の眼の前でおこり衝撃を受けたのでしょう。
横浜の埠頭はSRSつまり性別適合手術を実施するクリニック、汽船に乗ることはSRSを受けることを暗示しています。新たな性自認に従って歌い手からは離れた存在となった様子が歌われています。
今では青い目になっちゃって 異人さんのお国にいるんだろう
現代では瞳の虹彩の色を変える手術があるようですが、大正時代にはこういった手術もカラコンも当然ながら存在していませんでした。目の色が通常の日本人の栗色か黒から青になるというのはナンセンスだったでしょう。当然ながらこれもメタファーです。
SRSにより異人の体に変貌をとげ、異人の世界での生活に慣れていく様子が語られています。その国での風俗習慣に同化していき異人になるということは、歌い手の知っている女の子ではなくなってしまったということです。歌い手は彼女を失ってしまったもののそれでも憧憬を持ち続けているようです。
赤い靴見るたび考える 異人さんに逢うたび考える
3番まででトランスジェンダーの友人についての記述は完了します。この歌の秀逸なところはこの4番で歌い手自身の心の揺れ動きについて歌っているところです。
身近にいた人がある日突然変貌したことを目の当たりにして、では自分はどうなのかと問いただすシーンです。ただ思い出すだけなら「考える」とは言わないでしょう。周囲にトランスジェンダーがいる場合、通常の性自認で暮らしている人でさえふと「自分はどうなのか」と考えてしまうことがあると思います。
もしかしたら自分の中にも異人がいるのではないか、未知の世界に旅立つ将来があるのではないか、そういった可能性に一度は思いを馳せることがあるだろうと思います。
以上多少強引ではあるのですが、トランスジェンダーとしての物語として赤い靴を再構築してみました。