スキタイの「女性病」について

こんにちは、サクラです。

今回は男子のかかる「女性病」という古代の病気と、それにまつわる特殊な能力についてお話します。

紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスは自著『歴史』の中でスキタイのエナレスという不思議な人々について語っています。スキタイは黒海の北岸(現在のウクライナ周辺)に存在したとされる古代の遊牧民族国家です。エナレス Ἐναρέης とは「女性病」にかかったスキタイ人男子の集団を指し、予知能力を持っていたとされています。

エナレスの起源には以下のような顛末があったとされています。スキタイの戦士たちがエジプト遠征に行った帰りのことです。

Οἳ δὲ ἐπείτε ἀναχωρέοντες ὀπίσω ἐγένοντο τῆς Συρίης ἐν Ἀσκάλωνι πόλι, τῶν πλεόνων Σκυθέων παρεξελθόντων ἀσινέων, ὀλίγοι τινὲς αὐτῶν ὑπολειφθέντες ἐσύλησαν τῆς οὐρανίης Ἀφροδίτης τὸ ἱρόν.

そして帰途につく彼らがシリアのアスカロンという街についたとき、多くのスキタイ人たちが害を加えることなくそこを通り過ぎた一方で、彼らのうちの少数の者たちがその地に残り天空の女神の神殿に対して略奪を行った。

この女神は原文ではアプロディーテーとしていますが、あくまでギリシア人向けの文脈であって、実際にはオリエントで広く崇拝されていた女神を指しているようです。英語版の翻訳者ゴドリーの注釈によるとアッシリアではミリッタ、フェニキアではアスタルテと呼ばれていました。

Ἔστι δὲ τοῦτο τὸ ἱρόν, ὡς ἐγὼ πυνθανόμενος εὑρίσκω, πάντων ἀρχαιότατον ἱρῶν ὅσα ταύτης τῆς θεοῦ: καὶ γὰρ τὸ ἐν Κύπρῳ ἱρὸν ἐνθεῦτεν ἐγένετο, ὡς αὐτοὶ Κύπριοι λέγουσι, καὶ τὸ ἐν Κυθήροισι Φοίνικές εἰσὶ οἱ ἱδρυσάμενοι ἐκ ταύτης τῆς Συρίης ἐόντες.

この神殿は、私が調べ明らかにしたところによると、この女神を祀る多くの神殿の中で最古のものである。というのもキプロスの神殿はキプロス人自身が言うようにここから分祀したものであり、キティラに神殿を祀った者たちは同じシリアが出自のフェニキア人であるからだ。

キプロスもキティラも東地中海にある島で、ギリシア人が身近に感じる地名です。これらの島にある神殿の由来がアスカロンの神殿であるということでこれに権威を与えています。

τοῖσι δὲ τῶν Σκυθέων συλήσασι τὸ ἱρὸν τὸ ἐν Ἀσκάλωνι καὶ τοῖσι τούτων αἰεὶ ἐκγόνοισι ἐνέσκηψε ὁ θεὸς θήλεαν νοῦσον: ὥστε ἅμα λέγουσί τε οἱ Σκύθαι διὰ τοῦτο σφέας νοσέειν, καὶ ὁρᾶν παρ᾽ ἑωυτοῖσι τοὺς ἀπικνεομένους ἐς τὴν Σκυθικὴν χώρην ὡς διακέαται τοὺς καλέουσι Ἐνάρεας οἱ Σκύθαι.

しかし、スキタイ人のうちでアスカロンの神殿を略奪したものに対して、そして彼らの末代の子孫に対しても、神は女性病を放った。これに従いスキタイ人たちは以下のことを語っている、この出来事により時を同じくして自分たちがこの病気を患っていることを、そしてスキタイの土地に訪れるものはエナレスと呼ばれるその者たちの症状を彼らの中に見いだすであろうことを。

— Hérodote, Histoires, Livre I 105 —

女性病とはθήλεια「女に関する」 νοῦσος「病気」の二語からなる熟語でその詳細は語られず、ただスキタイの土地に来ればそれを見ることができると伝えられるのみです。女性病は「男性性の喪失」、好戦的な騎馬民族の文脈において「戦闘能力の喪失」という意味ではないかと思われますが、「来ればわかる」的な言い方はそれ以上の形容しがたい何かがあるのではと想像を掻き立てられます。

女性病を発生させた神は ὁ θεὸς と男性形で記述されていますが、これがどの男神を意味しているのか、あるいは女神を一般的な男性名詞で表現しただけなのか、その意図はわかりません。ゴドリーの英訳ではgoddess 「女神」と意訳を行っています。文脈から考えたら神殿の略奪者に対する復讐はその祀られている天空の女神自身が行うのが無理がない理解だからでしょう。 また、この天空の女神が小アジアのキュベレーのように両性具有的な性質を備えるののであれば、両性具有を男性形で表現するのも可能でしょう。

エナレスの語源についてゴドリーは由来が不明であるとしています。調べると、Ἐναρέηςという単語は-ηςという語尾をもつギリシア語の第三変化名詞であり、その語尾-ηςを取り除いた単語としてἔναρα「戦利品」という中性複数の単語が見つかります。「略奪で得た戦利品に関係する者たち」というのがエナレスの語源ではないかと私は思うのです。というのも彼らは女性病によって戦闘力を失った一方で他の能力を得ていたことをヘロドトスは同じ書の別の箇所に記しています。

Μάντιες δὲ Σκυθέων εἰσὶ πολλοί, οἳ μαντεύονται ῥάβδοισι ἰτεΐνῃσι πολλῇσι ὧδε: ἐπεὰν φακέλους ῥάβδων μεγάλους ἐνείκωνται, θέντες χαμαὶ διεξειλίσσουσι αὐτούς, καὶ ἐπὶ μίαν ἑκάστην ῥάβδον τιθέντες θεσπίζουσι, ἅμα τε λέγοντες ταῦτα συνειλέουσι τὰς ῥάβδους ὀπίσω καὶ αὖτις κατὰ μίαν συντιθεῖσι. Αὕτη μὲν σφι ἡ μαντικὴ πατρωίη ἐστί.

スキタイ人の中には多くの占い師がいる、彼らは以下のように多数の柳の枝を使って占いをする。彼らはいつでも多くの枝の束を持ち歩き、それを地面に置いて束を解く。そしてその枝を一つづつ置きながら未来を述べる。そして話をしながら枝を集め、再び一箇所に置く。この占いの方法は先祖代々彼らに伝わるものである。

Οἱ δὲ Ἐνάρεες οἱ ἀνδρόγυνοι τὴν Ἀφροδίτην σφίσι λέγουσι μαντικὴν δοῦναι: ἐπεὰν τὴν φιλύρην τρίχα σχίσῃ, διαπλέκων ἐν τοῖσι δακτύλοισι τοῖσι ἑωυτοῦ καὶ διαλύων χρᾷ.

また、両性具有であるエナレスたちは女神が彼らに占いの技術を与えたと言う。彼らはライムの樹皮を使って占いをする。彼らはライムの樹皮を3つに切り分け、それを指で編んだり解いたりして神託を呼び起こす。

— Hérodote, Histoires, Livre IV 67 —

エナレスはἀνδρόγυνοι「両性具有」であるとここでは述べられています。ただ生物学的な両性具有者が集団を形成するほど多く存在していたと解釈するには無理があるでしょう。むしろ彼らは生物学的には男性でありながら、スキタイの社会の中で「女性性を有する男性」「両性を備える者」というジェンダーの取り扱いを受け、占い師という社会的役割を与えられていたと考えられます。

またこの能力を与えたのは原文では略奪された神殿で祀られていた女神、ギリシア人の言うところのアプロディーテーであることから、男性的な能力を奪うだけでなく、それに代わる女性的な能力を与えたと解釈出来ないでしょうか。女性病という病は戦闘能力と引き換えに未来予知の能力を彼らに与えたのです。

もちろんここでいう男性的・女性的というのは古代の文脈での話で、ジェンダーフリーの嵐が吹き荒れる現代の私達の感覚と異なることでしょう。トランスジェンダー的な文脈で読み返してみると、この時代に性的違和を自覚したスキタイ人MtFは女神の助けをかり、エナレスと呼ばれるトランスジェンダー的な生き方をしていたとも解釈できます。

以前の記事に書いたキュベレー信仰とも通じるものがここにも見いだせると思います。

女神キュベレーとアッティスの去勢

ラテン詩人の記述するキュベレー信仰

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