こんにちは、サクラです。
前回の記事から随分間が空いてしまいました。今回はSRSから3年が経過した現在から移行期の心の状況を振り返ってみたいと思います。
共産主義を代表する国家、ソビエト連邦が崩壊したころ、フランシス・フクヤマという政治経済学者が『歴史の終わり』という著書で政治体制の発展の歴史が終わったことを主張しました。共産主義やファシズムや王政など他の政治体制に対する自由民主主義の勝利を謳ってはいましたが、現在の世界の状況を見るとそれが妥当な主張かどうかは疑問が残ります。(この主題に関してはサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』やエマニュエル トッドの『帝国以後』のほうがより世界の事情を正確に描けていたのではないかと思います。)
この『歴史の終わり』と同じような観点で自分の性移行期を眺めてみたいと思います。
性移行期の私の心の状況は、どのような行動規範を持って日々を生きていくのかの葛藤に埋め尽くされたものでした。私の行動を男性の自分として律するのか、それとも女性の自分か、それとも現状のトランスジェンダーの自分なのか、その時の自分の身体の状況、内分泌系の状況、心理的状況により統一した方法が見出だせませんでした。
たしかにこれは仕方のないことでした。MtFの私にとって、男性の自分は決別したい過去であり、女性の自分は望むべき未来であり、トランスジェンダーの自分は妥協するべき現在というように3つが違う属性を持っていました。社会生活を行う上でこれらのそれぞれが表に出てくる場面がありました。私を取り巻く状況はつねに流動的で、生活もそれらの混在した奇妙なスタイルとなります。
自分を律するこれらのものは、それぞれ思想が異なるため、私のなかでこれらの間で対立がありました。それぞれの行動基準も随分異なるため、まるで別人のような行動をすることもありました。今から考えると軽い統合失調症になっていたのではないかと思います。
さて、SRSから3年経った現在の私を律するのは主として女性としての自分のみとなっています。男性の自分はその活躍する場を徐々に失い、職場で女性で働くことになったときに完全になくなりました。男性として外出できるような服もすべて捨ててしまったので、男性の自分が活躍する可能性は完全になくなったと言って良いでしょう。もちろんそれが寂しいとか、古き良き時代があったなどとはまったく感じません。
一方トランスジェンダーの自分についてはどうなったでしょうか? 今のわたしを取り巻く環境ではこの行動規範が表に出てくることはあまりありません。もちろん近い友人や同僚は私がトランスジェンダーで有ることは知っていますが、あくまで基本が女性としての扱いで、話題によっては時々意識される程度です。このためトランスジェンダーの自分というのは女性としての一部分となっていて、単体で表に出てくる場面がないのです。
世の中ではLGBTという言葉が使われているものの、性自認に関する世の人々の扱いは男女という2つの選択肢になりやすく、結局のところ見た目や印象でどちらかに振られるのが一般的だと思われます。
このような内的外的状況から、私の持っていた葛藤は雲散霧消しました。私は自分に起こったこの変化をフランシス・フクヤマにならい「歴史の終わり」と呼んでいます。
ただ終わったのは性の葛藤であって、私の人生におけるすべての葛藤が終わったわけではありません。これからも色々な問題が出てくるでしょうが、自分を律するものが(少なくとも性自認に関しては)シンプルな現在、私がする対応もシンプルになると思います。
いつもながら冷静にして自己観察に優れたご論考、大いに参考になります。わたしの場合は配偶者との仲を続けているせいもあってか、SRSを受けてから四年経過しても「トランスジェンダーとしての自分」にしかアイデンティティーを見いだしえませんが、それでも日々に「女性としての自分」の比重が大きくなってきてはおります。
また、話はわき道に入りますけれども、他の精神疾患があるからといって性同一性障害であることが排除されるわけでもないと思っております。
https://ameblo.jp/akemi-gid/entry-12696727880.html
明笑さん
ご無沙汰しています。最近の投稿を拝読しました。
みなさん性別違和・性同一性障害以外にも個別の事情や問題を抱えていて、その解決を試みたり妥協したりして暮らしているところは同じだと思います。性別違和・性同一性障害の問題についても、ことさら特別視することなく淡々と対処すれば良いと思います。
コメントありがとうございました。