トランスジェンダー的コスモポリタニズム

こんにちは、サクラです。

今日はトランスジェンダーとしての自分を何に帰属させるべきなのか考えます。

トランスジェンダーの方の多くは性別的に男性にも女性にも帰属されない、または帰属できないという経験をされていると思います。私は、あるときは両方に属しているような、別なときにはどちらにも属していないような感覚を味わってきました。

これは他に例えるのであれば、異邦人として外国に住んでいる人の感覚に近いかもしれません。自分の生まれた国と住んでいる国に、ある意味では両方に属し、別な意味ではどちらにも属さない、という感覚です。

英国人Stingが外国の大都市で暮らす様子を歌った Englishman in New York の歌詞も、これに近い感覚を共有していると思います。以前の日記でその歌について書いたことがありますので参考までにリンクしておきます。

異邦人

さて、先日近所の銭湯のサウナに入っていると、常連のお客さんたちが以下のような会話をしていました。

ここの女湯に性転換した人がよく来るんだって

あれあれ、その人ひょっとしたら今ここにいる私のことでしょうか? と一瞬思いましたが、まさか私がトランスジェンダーだと知っている前提でそんな話はしないだろうと推測し、私以外の人の噂と判断しました。見ている限り性質の悪そうな方々ではなく、むしろサバサバした感じだったので、当てつけでこのようなことは言わないと思ったからです。お客さんたちは続けます。

手術受けたって体の作りが違うから見ればわかるのよ

急に私は自分がどのように見えるのか気になってしまいました。背は男性としては低いものの女性としてみれば高めで、男性としては比較的華奢ではあっても、女性としてみたら肩幅は広くお尻も小さくがっちりしていると思います。通常は私のことをトランスジェンダーだと強く意識されることはないでしょうが、絵本の『ウォーリーをさがせ』を見るような注意力で見たら、私も隠れることはできないでしょう。でも、繰り返しになりますが、本人の前では言わないだろうということで、これも私のことではないと判断しました。

SRSを済ませている人が仮にトランスジェンダーだと判明したところで「女湯には入るな」とか「男湯に入れ」などとは言えないでしょう。だとしても、噂される側としては、なんとも座りの悪い気持ちが残るものです。

一方、この話をした人たちにしても、ある種の薄気味悪さを抱くのは仕方がないことかもしれません。トランスジェンダーというのは彼女たちにとっては未知のもので、外国人の未知の文化や風習が理解できないときと同様の感情を抱いても不思議はありません。

人の噂は、トランスジェンダーに限らず一般の多くの人に付きまとうものです。人の口に蓋をすることはできないので、敵意を持たれない限りは、気にせず静かに過ごすのが賢明でしょう。私達は生まれた性とは異なる性で暮らしている性的な異邦人なのですから、いわゆる外国人と同様に、人の噂にのぼりやすいのです。

このような状況を受け入れるために、過去の知恵を探ってみましょう。

古代ギリシアのアテネやスパルタといった都市国家が衰退していった時代に、自分の生まれた場所以外の場所で、あるいは複数の場所を移動しながら生きなければならない状況が生じてきました。ここからコスモポリタニズムという思想が出てきたといわれています。近代に様々な文脈で異なる意味を与えられてはいますが、もともとは「現在の世界の秩序に従いつつも自分の出身地に縛られない生き方」というほどの意味です。この思想を持つ人をコスモポリタンと呼びます。当時の人々はその状況を積極的に受け入れることでこのような思想を持つに至ったのです。

言葉の補足をしておきます。コスモポリタンは κόσμος コスモス「世界」と πολίτης ポリテース「市民」の複合語である κοσμοπολίτης コスモポリテース「世界市民」に由来します。ポリテースは πόλις ポリス「都市」に由来しています。このポリスからはたくさんの現代語が生まれています。メトロポリス「母なる都市」、メガロポリス「巨大都市」、ポリス「警察」、ポリシー「政策」、ポリティクス「政治」など枚挙に暇がありません。地名のナポリは元はギリシアの植民都市でネアポリス「新しい都市」の意味でした。コスモポリタンとメトロポリタンとスパゲッティ・ナポリタンの語尾が一緒なのは偶然ではありません。

おそらく、地縁や血縁でしか人間関係を構築できなかった当時の社会においてこの考えは衝撃的だったと思います。これをトランスジェンダーの文脈で理解するとすれば「現在の世界の秩序に従いつつも自分の生物学的性に縛られない生き方」となるでしょう。女湯のサウナの雑談としては、この話題は十分衝撃的といえます。

自分が帰属するのは自分の生まれたときの性だけでなく、男性女性に限らず性のコンテキスト全体であってもよいわけです。トランスジェンダーの文脈でのコスモポリタン、「世界市民」ならぬ「全性市民」というべきでしょうか。

LGBTの運動などにみられるように、特定の性に対しての強い帰属がなくなりつつある現状は「性のコスモポリタニズム」の台頭と言えます。トランスジェンダーは一方では「性同一性障害」と呼ばれるような「障害」かもしれません。しかし他方では生まれた性に執着せず、性を越境し自分の居場所を求める性のコスモポリタンと表現することができます。

「トランスジェンダー的コスモポリタニズム」への2件の返信

越境者の宿命 | サルマキスの泉で へ返信する コメントをキャンセル

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