こんにちは、サクラです。
みなさんは巡礼をしたことがありますか? 今日は私が近々巡礼に行く話をします。
巡礼とはwikipediaによると「日常的な生活空間を一時的に離れて、宗教の聖地や聖域に参詣し、聖なるものにより接近しようとする宗教的行動のこと」を意味します。それを行う人も巡礼と呼ぶこともありますが、こちらは巡礼者としたほうがわかりやすいでしょう。日本では四国八十八か所の巡礼やお伊勢参りが有名です。
英語では巡礼をpilgrimage、巡礼者をpilgrimと言い、ラテン語で「異邦人」を意味するperegrinusに由来します。キリスト教の文脈ではバチカンやエルサルム、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ、フランスのルルドへの巡礼などが有名です。
北アメリカに渡り合衆国の基礎を築いた最初の清教徒のことはピルグリム・ファーザーズ Pilgrim Fathersと呼ばれますし、イタリア料理店で出されるサン・ペレグリーノ S. Pellegrinoという炭酸水は「聖なる巡礼者」という意味のイタリア語です。
イスラーム世界では聖地メッカへの巡礼は信徒にとって重要な行いであり、ここから転じて「〇〇のメッカ」という言い方があるほどです。この表現はその〇〇を崇敬する人であれば一度は訪ねるべき場所を指しています。(ただし聖地を比喩的に使う表現であることからその使い方には配慮が必要です。)
最近ではアニメに登場する実際の場所を訪れることも聖地巡礼などと呼ばれます。そのアニメをこよなく愛する人にとってはその作品の舞台は「聖なる土地」となるのです。
さて私の巡礼の話でした。私の巡礼する先はSRSを行った街です。私は診断書などの準備が整ってから実際にSRSを受けるまで足掛け10年ほどかかっています。手術費用の問題や仕事の都合もありましたが、一番の問題は当時娘たちが幼かったことにあります。手術を受けるべき街は家から300km以上離れているため、彼女たちを家に残して行くこともできず、かと言って世話できないのが明らかである以上連れて行くこともできませんでした。
そのようなわけでSRSを行ったあの街は私にとって、それまで縁のない場所であったにもかかわらず「いつか行くべき約束の場所」として常に意識され続けていました。そして去年には、娘たちは私の不在にも十分耐えられるほど成長しましたし、資金の都合も、仕事の都合もつき、その街へ行くことが可能になりました。
実際の所SRSの術後10日近くそこに滞在し、術後のために静かに過ごしました。子どもが生まれてから20年近く私は働き続けていましたし、長期の休みをとっても必ず旅行など活動的に暮らしていたので、このように誰にも邪魔されず、特に何をするでもない日々を送るというのは私にとっては大変非日常な出来事でした。
家にもどって日常に戻ってからも、私の人生の転機となった大事な場所として、その街は常に意識され続けました。その街の名前を聞くたびに、なんとも表現し得ない感情に襲われるのです。それは懐かしいような温かいようなもので、もし可能であれば移り住みたいと何度も考えました。これは生まれた街に抱くものより強い感情です。
もし「この世界に自分が存在するにあたり、その場所がなくしてはありえない」と考えるとすれば、それは聖地と呼んで差し支えないでしょう。私にとっての聖地はあの街になるのです。
そこに私は自分の体の一部である外性器を置いてきました。執刀した先生は「せいきの大手術だったねー」と術後の診察で話されました。実のところ「性器」の変わり目は私にとっては「世紀」の変わり目以上の意味を持ちます。私の旧性器時代はそこで終わり、私の新性器時代はそこから始まりました。
術後のもろもろの生活の変化、行動の変化といったものが一段落した今、私は二泊三日の巡礼の旅に出かけることにしました。病院にお参りに行くわけにもいかないので差入れだけして、術後によく散歩した観音様にお参りすることにするつもりです。
観音様は、予想外の文脈から勝手に聖地指定されて何か思われるのでしょうか。でも敬虔な気持ちで訪ねてくる巡礼者を拒むことはないと私は思います。