不気味の谷の住人たち

こんにちは、サクラです。

身の回りではいろいろ生活の変化もあるのですが、今日は世の中の動きで思うことをお話します。

皆さんは「不気味の谷」という言葉を知っていますか? ロボット工学で主張される概念で、ロボットが人間に似てくるとだんだん好感が増してくるのですが、ある時点で急に嫌悪感が強くなるという心理現象を指します。これが、さらに人間に似てくるともう人間と見分けがつかなくなりその嫌悪感は解消されるというものです。以下の人間型ロボットの画像を御覧ください。

File:Repliee Q2.jpg
By BradBeattie at the English-language Wikipedia, CC BY-SA 3.0, Link

この人間型ロボットに対して多くの人はなんとも表現しがたい強い違和感を持つのではないでしょうか? 一方以下のロボットたちはどうでしょう?

Japan-Mobility-Show-2023-RuinDig 053.jpg
RuinDig投稿者自身による著作物, CC 表示 4.0, リンクによる

人間には似ていない形態でありながら、かわいいと思わせる外見を持っています。

不気味の谷については以下のようなグラフで説明されています。最初のロボットは「人間のようで人間でないもの」として不気味の谷の底に位置しているため周囲から違和感あるいは嫌悪感を抱かれる一方で、二番目のロボットたちはこの谷より左側に位置しているため「あきらかに人間ではないが人間の好む外見を持ち好ましい振る舞いをするもの」として好感を持たれることになります。

 

Wpdms fh uncanny valley.jpg
Matthew Trump – File:Wpdms fh uncanny valley 3.jpg, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 

さて、長い前置きとなってしまいました。MtFである私は性移行を実行するに際して「埋没」という目標を持っていました。MtFにとっての埋没とは「男性であった自分が女性として社会に認められること」ではなく、「自分の性についての疑念を周囲に抱かれることなく、トランスジェンダーであることも意識されずに、その他大勢の中のひとりの女性として生活を送ること」です。これはシスジェンダーの人々の世界と近いものになります。私は性自認を意識しないシスジェンダーとして長い期間を生きてきたため、性移行の後にも同様の生活を望んだのでした。このため「埋没」は私の目指す動機となりました。

私は、性移行をコスモポリタニズムとか越境と表現しています。生まれた土地でない場所で心静かに暮らすにはその土地の流儀に従うことが大切であると考えました。これは埋没につながる考え方です。

トランスジェンダー的コスモポリタニズム

越境者の宿命

私は多くのトランスジェンダーが(実行可能かどうかは別として)埋没を目指しているものと単純に決め込んでいました。しかしながら最近の世の中の様子をみると、性移行の途中の段階をそのまま受け入れてほしい、受け入れるべきだ(つまり埋没する必要がない)という主張や運動を見るようになりました。これは多様性という魔法の言葉で彩られた素晴らしい世界が実現されるかのような印象をあたえていますが、一部の(おそらくは多くの)人々はこのような世界を切望してはいないと感じています。実際私もそれほど望んでいません。

なぜこの運動は、これに関わりのない人々に違和感あるいは嫌悪感を与えてしまうのでしょうか?

それは性移行の領域にも不気味の谷が存在するためだと私は思います。もちろんロボット工学の原義通りの不気味の谷と同様に、すべての人がこれを認識するというわけではありません。

上記のグラフMtFに読み替えするならば横軸は「女性への類似度」、縦軸は「生物学的男性への感情的反応」と読み替えるべきでしょう。女性に好感を持たれる男性はグラフの不気味の谷の左側で感情的反応の高い位置にいるはずです。これは「あきらかに女性ではないが女性の好む外見を持ち好ましい振る舞いをする人」として、上記の2番目の画像のロボットたちと同じ位置にいると言えます。この谷の左側はシス男性(性自認が男性である生物学的男性)の領域と言えます。

一方MtFの性移行はこの谷を超えて右側に抜ける行為と捉えることができます。この谷では「女性のようで女性でない人」と意識され最初の画像のロボット「人間のようで人間でないもの」と同様の違和感を持たれることがあるでしょう。私はこれに耐えられず、素早く性移行を完了することを目指したのです。この谷の右側は「埋没」の世界です。

しかし、この谷底にとどまる生き方もあります。谷を右側に抜けたくても様々な事情からできない方もいるでしょうし、一度は右側に抜けたとしても状況によってはこの谷に再び足を踏み入れる人もいるでしょう。それは選択肢として認めるのが良いと思います。

とはいえ、不気味と感じるものを受け入れるのは多くの人にとって困難であるか多大な修練を必要とすることです。つまり人が「人間のようで人間でないもの」を人間として認めようとするときと同様に、女性が「女性のようで女性でない人」を同性と認めるのは困難であるか多大な修練を必要とするである可能性が高いのです。もう一度最初の画像のロボットの写真をみて、これを人間として受け入れられるかをじっくり考えてみてください。

人間社会は理性的であるべきですが、一方で心の奥底から沸き起こる人々の感情を無視することは社会に不安と分断をもたらします。不気味の谷に住む人々は、本当はそのまま認められるのが理想ですが、不気味さを完全に払拭するのは無理ではないかと思われます。そして不気味さを存在しないもののように無視してしまうと様々な不幸が生じることになるでしょう。谷の人々の存在が社会で許容されるのと同時に、この不気味さも共有されるとよい思います。なぜなら、生物学的性が今のようなあり方で存在するかぎりこの谷も存在しつづけ、私達は無関係でいられないと思われるからです。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください