プリニウスの語る両性具有と性転換

Valete ! サクラです。

今回はプリニウスが『博物誌』で語った古代の両性具有と性転換について語ります。

大プリニウス Gaius Plinius Secundusは紀元1世紀ローマ帝政初期の軍人で『博物誌』Naturalis Historiaという37巻におよぶ百科全書のような著書を古典ラテン語で書き残しています。その第7巻には人間の生態に記述が当てられています。少ない記述ですが両性具有と性転換の記述を見つけましたので、今日はこれを紹介したいと思います。

両性具有について

ここで語られる両性具有とは現代で言うところのインターセクシュアルのことと考えられます。これについては簡易な記述のみがあります。

Gignuntur et utriusque sexus quos hermaphroditos vocamus, olim androgynos vocatos et in prodigiis habitos, nunc vero in deliciis. — Pline l’Ancien, Histoire naturelle, livre VII, III 34

また、ある者たちは両方の性の属性を持って生まれてくる、我々は彼らを hermaphroditusと呼ぶ、それはその昔 androgynus  と呼ばれ、予兆と受け入れられていた、しかしながら現在は余興に関するものとして扱われている。

hermaphroditus、androgynusはそれぞれギリシア語のἑρμαφρόδιτος、ἀνδρόγυνοςのローマ字転写です。ローマ字転写のときにはギリシア語男性名詞の語尾-οςは、ラテン語男性名詞の語尾 -usに機械的に変更されます。ただし、原文中の-osで終わる単語が日本語訳で-usに変更されているのは、ラテン語の格と数の変化を対角複数から主格単数に、変化形から原形に戻しているためです。英語で例えるならばthem「彼らを」をhe「彼は」に変換する操作と同じです。深みにはまりそうなので文法の説明はここまでにします。

hermaphroditusはヘルメスとアプロディテの間に生まれた息子の神話に由来します。一方、androgynusはἀνήρ「男」とγυνή「女」から作られた複合語です。hermaphroditusの神話についての詳細は以前の記事を参照してください。

サルマキスとヘルマフロディトス

ギリシア・ローマ世界での両性具有の呼称はandrogynusからhermaphroditusに移行していったことがわかります。

また以前はin prodigiis 「予兆において」のような神的なイメージを持たれていたものが、in deliciis「余興において」と、扱いが変わっています。deliciae(deliciisの原形)は「余興」「喜び」「愛するべき対象」など多様な意味を持っているので確定はできませんが、見世物となったり、権力者の性的な対象として扱われていた可能性があります。

古代ローマでは、権力者が女性奴隷だけでなく、去勢した男性奴隷に夜伽の相手をさせていたこともありました。主人が女性の場合、男性奴隷は主人を悦ばせながらも妊娠させないため、陰茎を残し睾丸のみ除去された、と言う記録もあります。古代社会において、奴隷はヒトではなくモノとして扱われていました。このようなことから、身分の低い両性具有者の扱いについても同様の想像は困難ではありません。このように、両性具有者に限らず、奴隷は過酷な人生を強いられたことでしょう。

人々は汎神的な世界観から脱し徐々に現実的な認識を持つようになり、それにつれて両性具有の神性も剥ぎ取られていった様子が伺えます。

性転換について

性転換の記述は両性具有の少しあとに置かれています。

Ex feminis mutari in mares non est fabulosum. invenimus in annalibus P. Licinio Crasso C. Cassio Longino coss. Casini puerum factum ex virgine sub parentibus iussuque haruspicum deportatum in insulam desertam.

女性から男性に変化することは、おとぎ話などではない。プブリウス・リキニウス・クラッススとガイウス・カッシウス・ロンギヌスが執政官だった年代(紀元前171年)に私達はそれを見出している。カシヌムの街の親元で少女から変化した少年は腸卜(犠牲獣の内臓による占い)の命ずるところにより孤島に島流しにされた。

あくまで推測ですが、これは性分化疾患の例ではないかと思われます。性分化疾患においては出生時の外性器の発達が定型でないため、性別判定が適切に行われないということがあります。例えば5α還元酵素欠損症の例では、プリニウスが語る内容とよく似た症状がみられます。

テストステロンをジヒドロテストステロンに変換するための5α還元酵素を欠くために、XY染色体を持つ個体が胎内で男性化せず女性型として生まれる。たいていは気付かれず女性として育てられるが、二次性徴では男性化する。頻度は不明だが、先進国ではごく稀とされている。先進国では手術及びホルモン治療を受けて女性として生きることを望む人が多いが、ドミニカ共和国での発生頻度の多い地域の部族では、文化的に男性にならなければならないとしているところがある。— wikipediaより

現代日本でもこの性分化疾患が原因で戸籍の性別が訂正されることがあります。これはGID特例法による性別変更とは異なる手続きで「そもそも出生時の届け出が誤りだったので訂正する」という扱いになります。

先を読んでみましょう。

Licinius Mucianus prodidit visum a se Argis Arescontem, cui nomen Arescusae fuisse, nupsisse etiam, mox barbam et virilitatem provenisse uxoremque duxisse;

リキニウス・ムキアヌスはアルゴスの街の Arescon アレスコンという男を彼自身が観察したと記録している、この男の以前の名は Arescusa アレスクサという女性名であり、このことから(女性として男性と)結婚した、しばらくして髭と男性的な属性が現れたのち、妻を娶ったとのことである。

一見、与太話のようにも思えますが、現代の結婚適齢期とされる年齢より古代のそれのほうがもっと若かったため、性分化疾患で女性と思われていた人が、結婚後に二次性徴を迎え男性化した可能性は否定できません。アレスクサの夫はさぞかしびっくりしたことでしょうし、アレスコンの妻は半信半疑だったでしょう。またアレスクサからアレスコンへの男性化に至る以前に、周囲の人はなにかしら疑念を抱いていたのではないでしょうか。

eiusdem sortis et Zmyrnae puerum a se visum.

また彼はスミュルナでも同じような現象の少年を見たとも記録している。

ipse in Africa vidi mutatum in marem nuptiarum die L. Consititum civem Thysdritanum,… — Pline l’Ancien, Histoire naturelle, livre VII, IV 36

私自身もアフリカの地において結婚当日に男性へと変化した者を見た、ルキウス・コンスティティウスという名前のトゥスドゥリトゥムの市民で〜(このあと数語欠損)

アレスコンに続く例も、同様に大人になるにつれ女性から男性に変化する例でした。ただ、このような性転換といえる現象を目の当たりにした人の反応は地域や文化によって異なっていたことがわかります。というのも、最初のカシヌムの街の例では性転換者が街から追放される一方で、アレスコンの例のように結婚やり直しまで許容する社会もあったのですから。

まとめ

『博物誌』には残念ながら私に起こっていたような性別違和の記述はなく、あくまでインターセクシュアルや性分化疾患と思われる例のみでした。しかしプリニウス以外の記述においては、女神キュベレーに帰依する男性信者が完全に去勢をし、女装をし、社会的にも女性として扱われたと言う記録があります。これらの帰依者たちの中にはもしかしたら、性別違和を持つMtFもいたかもしれません。ただ去勢の方法については現在のSRSのような精巧な外科技術は存在せず、その後のホルモン補充も行われないことから、去勢後は精神的に不安定になっていたと推測できます。

プリニウスや他の古代の著者の例をひくまでもなく、キリスト教の支配する後の中世の時代より、古代ギリシア・ローマ時代のほうが性的少数者に対しては許容度が高かったと思います。性的少数者は現代において初めて見いだされたのではなく、古代人の持っていた性に対する認識の再発見であるかもしれません。

「プリニウスの語る両性具有と性転換」への2件の返信

  1. Sacra さんの本領発揮で、西洋古典の原文ですか。
    「女神キュベレーに帰依する男性信者が完全に去勢をし、女装をし、社会的にも女性として扱われたと言う記録」については、『金枝篇』の邦訳で読んだような記憶がありますが、もしかすると別の書物だったかもしれません。

    現代で言えば性別違和にあたるような人の受け皿として、通常は女性が担う巫女のような役割に、少数の身体的に男性の人も就くことを許されていたらしい形跡が、遺骨と一緒に発掘された装身具から考古学的に推定された例があるとか。わたしももしそういう古代社会に生まれて、SRSの医療に恵まれなかったら、そういう「巫女役男性」のような地位を望んだかもしれません。

    古来、性分化疾患の人々の受け皿、あるいは性別違和の人の受け皿を用意していた社会が多いという話には、わたしは大いに納得します(歌舞伎の女形も江戸時代には現代のような純粋に芸としての女形ではなく、性別違和の持ち主が選ぶ職業という側面をかなりもっていたのではないか)。しかし、20世紀の性的マイノリティーの人権運動を主導したのがゲイであったせいか、LGBTなどという変な頭文字語が生まれてしまったり、さらに、古代ローマなどに見られた、優越的地位の男性が下位の者への支配権の誇示として「美少年を擬似女性として囲い、しばしば性的関係をもっていた」ような差別的文化(日本で言えば信長・蘭丸的文化)を指して、「キリスト教より前の時代のヨーロッパ社会は同性愛にもっと寛容だった」などと言う人々が一部にいることについては、わたしはむしろ眉をしかめています。パウロが「ローマの信徒への手紙」で非難しているのは、そういうたぐいのものでしょう。その非難されている対象にわざわざ自己を同一化して人権を主張するのは、当を得たものではないように、わたしは思います。ゲイのアイデンティティーのよりどころが、いまだに揺れている現象のように感じます。

    • Akemiさん

      いつもコメントありがとうございます。聞きかじりのことを、つなぎ合わせて記事にしているので、機知に富んだお話はありがたいです。

      実は私もこの記事を書いたあとキュベレーに興味を持って原典を探していたところです。まとめたら記事にしたいです。『金枝篇』は参考にさせてもらいますね。

      おそらく古代でもローマとギリシアでは同性愛の扱いは違ったと思います。ソクラテスやプラトンのいたころのアテナイでは同性愛、特に少年愛は、年長者が年少者に真善美を伝える徳の高い行為とみなされていたと聞きます。一方でローマ帝政後期には文化のすべての面で退廃的な風潮となり、聖アウグスティヌスの『告白』にみられるように、キリスト教に対する渇望を強めたのもこういったことが根本にあるのだと思います。

      実際のところ、現在の同性愛の文脈でどれだけ古代の思想が受容されているのか、私は知りません。LGBTというと、ついディオニュソス的な、下手をすると反知性的なイメージを抱いてしまうのですが、だからこそ古代の知恵を汲み取る余地はまだまだあるのではないかと思っています。

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